Shoho Kozawa

August 12, 2023

シンガポールの歴史

これまでシンガポールには何度も訪れていますが、1度もシンガポールについて学んだことがなかったので、シンガポール国立博物館に行ってシンガポールの歴史ついて学びました。

日本人にとっては、見たくない出来事も多く含まれる内容で考えさせられる時間になりました。

なお、この投稿で僕の政治的な意図や政治信条などを伝えるつもりはなく、僕がシンガポール国立博物館で見てきたもの、それをどう理解してどう思ったかを書いているだけです。

シンガポール国立博物館はラッフルズホテルから歩いて5分ほどのところにあります。まず、その建物自体が本当に素晴らしくて感動します。建設されたのは1877年、シンガポール最古の博物館です。

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中に入ると、オーセンティックの外観からは想像できない、近代的な空港をモチーフにした。看板が出迎えてくれます。

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常設展の中でも、今回はシンガポールの歴史を紹介している「Singapore History Gallery」に行ってきました。常設展への入場は、シンガポール永住権保有者やシンガポール国籍の人、子供などは無料ですが、ビジターは15ドルの入場料がかかります。

はじめにお伝えしておくと、今回はたまたま時間が空いたので思い立って1人で行ってみたのですが、この展示は絶対にガイドさんをつけてもらったほうがいいと思います。日本語のガイドツアーもやっているようなので、もし行かれることがあれば、時間を合わせて行ってみることを強くお勧めします。

シンガポールの歴史は4つの時代に分けられる

今回、博物館を訪れる前の段階でシンガポールの歴史について僕が知っていることといえば、

  • マレーシアと関係が深そう
  • 昔、日本側が占領していた
  • イギリスの統治下だった
  • ラッフルズさんと言う人がいる

くらいのこと程度でした。大変恥ずかしい限りです。

シンガポール国立博物館では、シンガポールの歴史を4つの時代に分けています。展示もその4つの時代それぞれに対して行われています。まずは1300年代から1818年までの時代からスタートです。

Singapura (1299 – 1818)

考古学的な分析をすると、現在のシンガポールの土地には昔から人々が住んでいたようですが、シンガポールについて記録されたもっとも古い記述は、1300年から1400年頃の出来事のようです。この当時、シンガポールは Singapura と呼ばれていて、その当時の中国や東南アジアとの港町として栄えていたと記録されています。

展示では、当時の船が再現されていたり、当時の人々の暮らしがビデオで紹介されていて、その時使われていた道具のレプリカなどが置かれています。

ちなみに、1300年から1400年代と言うと、日本では鎌倉時代から室町時代にあたります。

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500年ほど(書物で残っているところだけ数えて500年と言うことなので、実際はもっと長い間だと思いますが、) Singapura の時代が続き、1819年にシンガポールにとってとてつもなく大きな出来事が起こります。

Crown Colony (1819 – 1941)

1819年、あるイギリス人がシンガポールに来ました。おそらく我々がシンガポールに関連する人を聞かれれば、多くの人がこの人を思い浮かべると思います。

そう、ラッフルズホテルで有名なラッフルズさんです。

この人です。

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ラッフルズホテルがあまり有名なので、シンガポールは独立させたのはラッフルズさんだと勘違いしている人もいるようですが、このラッフルズさんがシンガポールを独立させたわけではありません。

ラッフルズは「シンガポールって、実はめっちゃ重要な土地になるんじゃない?」と思い、1819年にシンガポールに上陸して、その当時のマレー半島を統治していた有力者と話をつけて協定を結び、シンガポールにイギリスの貿易港を開港します。これがラッフルズの功績です。

ここからシンガポールとイギリスの関係の始まります。この時代を Crown Colony と呼ぶようです。

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その後ラッフルズは、1820年に「どんな国の船や船舶にも港を無税で開放するよ」と宣言して、アフリカやアラビアからもドンドン船がやってくるようになり、その結果、シンガポールは急速に発展を遂げることになります。

その当時のシンガポールです。人々が丘から発展を続ける街並みを眺めています。

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ラッフルズ以外にも、この当時のシンガポールにとって重要な人たちの肖像画などが展示されていますが、私が勉強不足により全く誰なのかわかりませんでした。勉強してまた訪れたいと思います。

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ちなみに、その当時のアジアは、ヨーロッパの人たちから奇妙に映っていたようで、それを記録した絵画なんかも展示されています。

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その後、シンガポールは1824年にイギリスの植民地となり、シンガポールは東南アジアの貿易の中心地として繁栄の道を辿ることになります。

そこから約120年後、シンガポールは初めて戦争を体験することになりました。相手は日本です。

Syonan-To (1942 – 1945)

1941年12月8日、日本軍は当時イギリスが統治していたシンガポールを爆撃しました。約4ヶ月後の翌年1942年2月、イギリス軍は日本軍に無条件降伏し、マレー半島とシンガポールを占領しました。シンガポールは「昭南島(しょうなんとう)」になりました。

日本軍がシンガポールを「昭南」として統治していた3年間、これがシンガポール第3の時代です。

シンガポールの長い歴史から考えると、3年は必ずしも長い期間ではありませんが(注: もちろん長くないからいいなどという意図で書いているわけではありません)、シンガポールにとってこの3年間は忘れられない歴史になることになり、この3年間を、シンガポールが歩んできた4つの大きな時代の1つとして紹介しています。

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シンガポールを占領した日本軍は、イギリス植民地時代に築きあげられたシンガポールの社会構造や文化を一気に変えていきます。プロパガンダのために、映画は洋画から日本映画になり、日本語教育が始まりました。ラッフルズホテルの名前は「昭南旅館」になり、制服は和服になりました。

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最も残酷な事実は、その当時シンガポールにいた主に中華系(中国系)の大量の人々を日本軍が虐殺した(シンガポール華僑粛清事件)ということです。シンガポールの公式見解では、1942年2月15日から1945年9月12日まで、日本軍がシンガポールを占領していた間に殺害された人の数は50,000人以上だと言われているそうです。

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広島と長崎に原爆が落とされ、日本はポツダム宣言を受け入れて戦争は終結しました。

注: この解釈にも意見はあると思いますが、少なくともこのように説明をされていたのでこのように記載しています。何度も言いますが、政治的信条や歴史解釈を伝える意図はありません。

日本が連合国に降伏したのち、イギリス軍は戦争犯罪として、中国系住民の虐殺に関与したとされる7名の日本軍人を裁判にかけます。イギリス軍による裁判の結果、多くの中国系住人の殺害に寄与したにもかかわらず7名中2名のみが絞首刑になり、残りは絞首刑を免れました。これがのちに blood debt (血の負債)として知られる事態に発展することになります。

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シンガポール第三の時代「Syonan-to」の展示会場では、この3年間にシンガポールが経験した厳しい時代を記録するために、日本にまつわる多くの展示品が置かれていました。またここに載せるのが憚られるような残酷な写真や、当時の日本軍が中華系の方々を幽閉していた施設も再現されていました。

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正直にいうと、恥ずかしながら僕は今日まで日本がシンガポールに対してどんなことをしてきたのかまったく知りませんでした。遅すぎたくらいですが、このような恥ずべき過去があったことを日本人として今回きちんと学べたことは大きな意味がありました。当事者として、日本人の方は是非訪れてみることをおすすめします。

Singapore (1945 – present)

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最後の時代は、現在まで続く「シンガポール」の時代です。

1945年に終戦を迎え、シンガポールはイギリスの統治下に戻ることになりました。その後、1959年6月にシンガポールはイギリスの自治領として自治権が与えられ、初の総選挙が実施されます。

この時に初代首相に選ばれ、その後1990年までの間、実に30年以上に渡ってシンガポール首相として君臨する人物こそが、リー・クアンユーです。

シンガポールを建国したのは、ラッフルズではなく、このリーという偉大な指導者だったわけです。

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リーはまだイギリスの自治区だったシンガポールで初代首相としてシンガポール自治を始めます。そしてリー首相の下、シンガポールは1963年に念願だったイギリスからの独立を果たし、マレーシアの一部となりました。このマレーシアとの合併はリー首相が望んで行ったことだったというのが大切なことです。

ただ、念願だったはずのマレーシアとの合併は失敗に終わります。

マレーシアには元々マレー人が先住民として多く住んでいました。逆にシンガポールにはイギリス統治時代に多くの中国系の人々(華人)が移民として移り住んでいました。

すると、移民であるはずの華人は、いつのまにか元々住んでいたマレー人より裕福になっていきました。マレーシア(マレー半島)にもともといる多くのマレー人より、外から来た移民の方が経済的に豊かになっていったわけです。

そこでマレーシア政府は「もともとここに住んでいたマレー人を優遇するよ」というブミプトラ政策という政策をとりはじめました。つまり移民である中国系の人を冷遇する政策をとったわけです。

最近もよくニュースになる移民問題です。

リー首相は「マレー人も華人も地元民だ」と反論しますが、マレーシアは人口構成で言えば70%近くがマレー人で構成されている国であるため、この政策は続くことになります。

リー首相はシンガポールの発展にはマレー半島全体での協力関係が不可欠だと考えて、最後までマレーシアとの合併維持を模索しますが、最終的にはマレーシアから追い出される形で1965年にシンガポール独立を宣言します。シンガポールの独立宣言は勝ち取ったと言うより、望まない独立だったわけです。

しかしご存知の通り、リー首相のリーダーシップによりシンガポールは爆発的な発展を遂げて今日に至ります。最後の Singapore の展示では、リー首相の当時の演説の様子や、インタビュー映像、そして発展を遂げていく市民生活などを見ることができます。



これが、僕が見てきた、そしてそのあとに少し調べて学んだシンガポールの歴史です。

本当はもっとたくさんのことが展示されているのだと思いますが、今の僕にはこれが精一杯でした。またちゃんと勉強して、今度はガイドさんもつけてもう一度訪れたいと思います。

# シンガポールに住んでいる中国系の人のことを「中国系の人」「華人」「華僑」など異なる表現で書いていますが、違いを認識していません。学術的にはシンガポール国籍をもつ中華系の人々は「華人」(Ethnic Chinese)と呼ばれ、中国国籍を維持しながら在住している人たちを「華僑」(Overseas Chinese)と呼ぶそうです。
# マレーシアと記載している部分は、正確にはマレー半島もしくはマラヤ連邦と記載した方が正確な部分がある可能性があります

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